連載 八十八齢春秋<6>
こどもが大人になったトキ!

北林谷栄


 ああ、九月一日が過ぎた。過ぎてしまった。
 どうしても言いたいのは大正十二年九月一日のことである。
 このとき自分は十二歳の小学六年生でありながら一足とびに大人の仲間に飛び込んでしまった。
 というよりも大正時代の一般の大人たちの最前列のようなところに押し出されてしまい、それで一生涯のじぶんというものが決定づけられたと思っている。

 思えは運命を指示してくれたそれは、十二歳の晩夏だった。

 大正十二年九月一日の正午、子供たち五人で昼食ちゅう、わけのわからぬ轟音がとおくから押し寄せ、同時に地の下からそれが突き上げ、家が割れたかと思う感触に、食卓から畳転きつけられ、その時ドッと天井が抜けて、土煙に包まれた。
瓦の大屋根ごと抜け落ちたのである。
それがあの、歴史的な関東大震災との対面だった。

 すごい震度で揺り返し揺り返し、惨事が始まった−。
 時間は昼の十二時。どこの家でも昼食の最中、またはその支度ちゅうなのだった。
 ガス、七輪の転倒。一面に火災が発生しはじめた。それにつづいて絶え間のない、地震の揺り返しの襲来である。凄かった。

 数十年後の現在でも、グラリとくると女の人はきまってキャーッなどと立ち上がって騒ぐ。
 本物の地震になれは騒いでもイミない。
 逃げることは一層危険である。
 大正十二年には大地が裂けて呑み込まれた人が多かったと聞いた。
 濛々とたる壁土の煙のなかで、子供五人で手をつないだ。大人たちは階下にいる。四歳、六歳の妹たちでも非常時を直感して泣かなでいる。泣いた者がいたという記憶はない。

 やがて数寄屋橋方面から黒い煙が押し寄せて来た。その時、我が家は数年前に銀座通りから移転して、いまの歌舞伎座の前にあった。采女町という町だが、のちに木挽町となった。
 昼間のことだから火事は赤くなく黒煙が進んでくるのだ−。
 日比谷方面からの一面の人波が火に追われて築地河岸を目がけて逃げてくる。狂気のような大群衆だ。

「逃げるとき学校の本だけは持つんだよ。焼けちゃうと困るから鞄と本を持ちなさい」
 十二歳といえども長姉はお手本でなけれはならない。当時はそうきまっていた。
 おかげで大きい姉ちゃんの私も、学校の教科書以外は持てないのだ。
少女雑誌から切り取って貯めこんだ蕗谷虹兒、加藤まさを、武井武雄の大、大、大好きな口絵の宝ものを後にのこして、チェッ、つまらん教科書を背負って浜離宮に逃げたのだった。
その愛蔵の口絵たちを貼り集めたノートのことは八十八歳の今も夢にときどきみる。

 くやしい教科書メは、震災後、学校再開のときに、学校からおんなじものをタダでくれた。妹の鑑たることは馬鹿馬鹿しい。いまでも口絵をを蓄めた苦労を思うと口惜しいのである。

 この震災時の混乱ちゅうに目撃した、大日本帝国在郷軍人と名のる者どもの残虐きわまる在日朝鮮人の人々に対する加害の情景は十二歳の私を怒りに震えさせた。

 一足とびに私は大人になったのである。少女雑誌のセンチな口絵に心を残しながら−。

<月刊誌「民藝の仲間」99年9月号より転載>


連載 八十八齢春秋<5> 
この世に不思議は存在するぞ

北林谷栄

 昔だったら、ただの草臥(くたび)れとして過ごしてしまうにちがいないいささかの不調なのだ。
 たまたま自律神経失調症などと大層な呼び名をつけてもらうと、その気になってしまう。『蕨野行』の東京公演がやっと終わって、そのまま抜け殻状態にズレ込んで梅雨期に入り、いまや青葉の濃い庭と向きあって暮らしている。

 ただ有難いことにベルアベトンという眼の薬が躰に合って老眼が急に活気づき始めて、文庫本なども鮮明に辿れるようになった。
 ならばこの際、心身を甘やかしてやろうなどと企み、スパイものの名手ときいている、フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」「オデッサ・ファイル」「騙し屋」などと物騒な題名の一連を図書館から借り出してきた。こういう一過性の読み物は決して買わない。読後は用済みとなり始末にこまる。

 要するに、おのれの老躰がいまやガタついてきたので、敏捷電光のごときスパイどもの行動感覚に期待するのがどうやら快感なのであろう。

 今迄はあまりこうした分野になじむこともなく、漠然とスパイというなりわいを軽侮していたが、さて国際冷戦間のどちらも悪玉づらの東西機密機構の黒い駆け引きのオハナシなどに曳き込まれてみると、大国どうしの陰険な機密機構などを手玉にとって攪乱し、飛鳥のように逃げ戻って、どこかでニッコリ、カクテルなどをかたむけるというのは、さして卑しい技とも思えない。要するにそのことで甘い給金などにありつくのは下卑ているという次第である−。

 ま、それはそれとして、フォーサイスさんの操るスパイどもにかまけているうちに、好調の眼玉がでんぐり返るような、さる事態が自分の前にも勃然と起きてしまったわけ。

 これについては、何号か前のこの欄に書いた謎の茶髪の植木屋の話をここで再び持ち出さなけれはならない。ちょっとめんどくさい。

 あれはたしか正月初めに流行性の香港風邪にやられての入院騒ぎの最中だったはずだ−。
 なぜか病床に出現した茶髪の植木屋が、高熱で混沌としている私に、カサブランカ百合の越冬の処置をどうするか、と詰め寄ったのである。「いまは病気で入院させられる騒ぎだ。カサブランカどころじゃない」と私は呻(うめ)いた。茶髪は「今更約束やぶられてもアッタマに来ちゃう」とあとに引かない。

 そのあんちゃんの出現も夢だったのか現(うつつ)だったのか今となっては朦朧としているのである。しかし彼奴は夢幻の人としては乱暴すぎた−。すったもんだの揚句、そいじゃ放っとくヨ、生きるもんなら生きらァ、とかふてくされを言って消えたのか帰ったのか彼奴は失せた−。

 こっちは一ヶ月後、流行性感冒A型から生還した。カサブランカの群生は黒く立ち枯れのまま地にくずおれ、寒季は過ぎて行った。前年の夏の白い花の群とは、もうお別れと観念する他ない。まっ黒いくしゃくしゃのただのゴミの山だが棄てかねた−。

 半年経過。ところがなんたること。現在七月。地に伏した腐れ葉の間に蕾が大きく膨らんで鈴生りに顔をのぞかせている−。よもやと思ったが細竹をそえて立ててみた。

 今朝、スパイの跳梁から目を離して一息ついた瞬間、キャンと声が出た。カサブランカ百合サンは白い提灯のように連なって十数箇の大輪を誇っているではないか。

 これでおしまい。

<月刊誌「民藝の仲間」99年8月号より転載>


連載 八十八齢春秋<4> 
ジンターナショナルで踊ろうよ

北林谷栄

 四月十三日、桜を散らす風が吹いている−。

 東京公演初日の二日前にあたるこの日の午後、日ごろ心のどこかで槌(すが)るところのある大工哲弘氏 − 沖縄の演奏家、大工哲弘氏の歌う、大工インター(駄洒落てジンターナショナル)をCDできいていた。やはり、それをききたくなるような心境にあったものとみえる−。大工氏のジンターナショナルは、インターナショナルどころか、国粋的な大太鼓、三味線(あるいは沖縄の蛇皮線か)などを軽々と浮き浮きと勇み肌にジンタ仕立てに囃し立てて、弱むしの心に活を入れてくれるそういう楽隊なのである。決して肩ヒジ張ったような気張ったものでなく、気弱い人間が内側からひしひしと元気づけられずにはいられない、そういう楽隊なのである。

 ともすれば、めげるか、突っ張るか、みっともないことになりがちの八十八歳さんはこれにささえられる。
 
 というわけで四月十三日風の日の午後にこれをきいていたのである−と、まあ思ってください。
 と、そこに下手な脚本のようにバカに間拍子よくこういうお手紙がとどいたのだ。
 このお手紙の主は、遥か九州の戸畑の方で文面は以下のような次第であった−。


 北九州も桜が落花をはじめました。花冷えとはよく言ったものだと思います。
 昨年十一月、思いもかけずお電話をいただき、『蕨野行』の貴重な脚本を送ってくださいました。
 私にとって、こんなすばらしいご縁を大切にしていきたいと思って、劇団へ問い合わせをしました。
 遠い九州ではあるけれど、思いきつて一月より「民藝の伸間」の会員に入会いたしました。
 そのおかげで北林さまのご活躍を知ることができ、うれしく思っています。
 インフルエンザのことはびっくりしました。
 勤務先の近くに三百九十年になるという千手観音菩薩さまがいます。
 観音堂は寛文三年に建立されたとあります。
 北林さまにお目にかかっていらい、出勤時、毎朝、ご健康をお祈りしています。
 願いごとがかなうと有名なのに、それなのにインフルエンザなんて、と思いました。
 でもみなさまのおかげでお元気になられた。これはやはり観音さんが守ってくれたと、都合の良い感謝をしています。

 また、このたびは数々の受賞、心からお祝いを申し上げます。(うれしくてなりません)
 いよいよ東京公演です。二十三日夜のチケットを息子夫婦と連席で購入しました。
 約一年ぶりでお目にかかることができます。

 どうぞお体を大切になさってくださいませ。

四月十日
北九州市戸畑区  須崎美穂子
北林谷栄様


 二十三日夜、須崎さんのご一家がこ上京くださるということだ。
 この知らせは、三味や太鼓のジンター・ナショナル以上に八十八歳さんの心を勇み立たせてくれる−。
 ところが、実はこの須崎さんのお顔がどうしても思い出せない。
 恥ずかしい。
 でもわたしはジンタで踊ってもいいと思うくらいうれしい。
 すぐに転んでしまいそうではあるが−。
 こういう時ハシャギ立つのが私の未熟な恥ずかしどころなのである。

<月刊誌「民藝の仲間」99年5月号より転載>


連載 八十八齢春秋<3> 
「蕨野行」−へんなカマイタチ

北林谷栄

 世の変転は速いもので、この前の号のこの欄では、たしか自分は流行性インフルエンザに取りつかれて、ある大病院の六階何号室かに鬱然たる日々を送っている身であったが、いまや春の修羅と化して美濃路・京阪と駆けまわっているではないか。

 禍福はあざなえる縄のことしと、子供の頃おとなたちの言うのを聞き流していたが、現実はそのとおりに進行しているようである。

 禍のほうから先にあげると、演出者であり、馬吉役を演るはずだった米倉さんが年末、明治座出演中に右脚のアキレス鍵を偶然のことから損傷し、チンバのため出演不能になったこと−。
 これは正確に言うなら、代役馬吉にとって代わった内藤安彦さんが、素朴、豪快、ユーモア感あり、ペーソスあり、在来のヤスヒコ像からは窺い知れぬ新境地を示してくれることで、たちまちワラビ組の「福」と転じたのだから、結構なことであったとも言える。

 おかげで米倉演出氏は、馬吉役の重荷から解放され、落ち着いて作品のぜんたい、役者群のぜんたいを見渡すことができるという、アキレス腱の災難以上の演出上の利益を得たわけだと私には思える。

 しかし、出来事はまだつづく−。
 なぜか不思議やこの組は、魔のカマイタチのようなものに、ふくらはぎを狙われているかのごどき災難がつづく。めでたく初回の旅公演の幕を開け、二、三日めの大阪あたりの舞台であったろうか、大事なワラビグループの一方の旗がしら、田畑ゆりさんのふくらっばぎに、例の悪のカマイタチめが取っついたのである。なんという理由も原因もなく、アッチッチィと田畑さんが倒れた。次の瞬間は、もう立てない。運輸班の運転手さんに抱っこされて、無惨な有様となり、出演は不能となつたのは米倉演出氏の場合と同じである。

 しかし、こちらのほうにも、なかなか悪くないおまけがチャ一ンと着いている−。

 久しぶりの田畑さんの役どころは、北林役のレンの幼な友達のトセという、分別と情愛の持ち主で、この数年の間のいつのまに彼女、これだけの味わいを蓄えたかと、いぶかしいほどの深みのある出来映えであった。
 その彼女が突如バッタリとアキレス鍵という惨事だったのである。しかし、このたびもまたあながち禍いとだけ呼べない良いこともひとつ着いている。

 田畑さんの穴には米倉演出氏が東京から飛んで来て、その案はなかなかのものであり、いくつかの女の役をズラして駒のならべ変えが行われた−。
かくて不運な出来ごとは舞台上では、何事もないものとして平和なまとまりを見せることができた。

私もそばに出ていたがキチンとしたものだった。その秘密は・・・いや実は秘密でもなんでもないのだが、他の小さい役で片隅に参加していた浅野亜子、花村さやかなどの若い人たちが、ふた月にわたる長いけい古に出席しながら、注意ぶかく劇の全体の構造、各々の役の生成変転などを頭のなかにインプットしていてくれたからこそできた芸当で、咄嗟の代役などというものは、泥縄では間にあうものではないのである。

カマイタチめは、これで案外この組の良い一面に光をあてて見せてくれたとも言える。

 あと二、三日で第一回の旅は終ろうとしている。
 京はそろそろ桜のときである一。

<月刊誌「民藝の仲間」99年4月号より転載>


連載 八十八齢春秋<2> 
カサブランカ騒動

北林谷栄

 めでたく八十八齢を迎えたはずの正月三日、どうも躰がぞくぞくする。

 殊によるといま流行の感冒かと、薬抽き出しのある納戸に行き、当てずっポに手さぐりでそれらしきものを探りあてた。
やれ、どうやら見おぼえの赤い紙箱を手はつかんでいる。おお、もっと早く来るべきだったよ、と心中満足。
用意の白湯を茶碗に注ぎ、さて箱を灯の下で見ればウオノメトールと変な名である。
汝ではない。いまは風邪気でゾクゾクするのだよ、とウオノメトールを抽き出しに投げ入れ、さらに探せど例の漢方薬の赤い風邪ぐすりは天に駆けったか、地にもぐったか。
赤いものはウオノメトールだけである。して私は流行性感冒というものを、この間に、しっかりと身に定着させたらしい。

 翌朝までゾクゾク、コンコン、カコカコケンケン。我ながら進行の速さに驚く。
一睡もできず、とめどなく咳がこみあげ押しよせる−。

 朝十時ころか。カッコンカッコン大苦しみの最中に、至急の相談と言って赤金いろの茶髪の若者が枕頭に通されてきた。いま病気だと断らせても、若者のほうは、こちらも忙しくて今をはずすと来られない突っばる−。

 何の用事か、とうめきながら聞きだすと、九月に庭の手入れに来た植木屋のバイトなのだが、その際に冬になったらカサブランカ百合の手当てをしてくれと頼まれたけど、お宅のカサブランカ百合はこのまま庭に放っておいていいのか、どこやらに運んで越冬の手当てをするのか、すぐキメろという言いぶんである。

 見るとおり病気がひどいので、今日は勘弁してもらいたいと、ゴホゴボコンコンやっとの思いで言うと「こまるんだよナア、おばあチャン、そんな勝手なこと言っても・・・」と茶髪は声を荒げ、ひたすら一方的にうそぶく。
 どっちが勝手だア、とスゴンでみせたいところであるが、当方もゲボゲホ、コンコンと、たんかにならないのである。
痰がからんで口が利けぬ。「とにかくビョーキだ」とうめいて眼をつぶった。「いまカサブランカ百合のことは考えられん。コン、コン、コン」

 眼をつぶったまま考えてみた。口は利けないのだから考えるだけだ。(もしカサブランカが来年咲くにしろ、咲かないにしろ、この世で眺めるか、あの世から見ることになるのか、ケン、ケン、ケン、まだわからん)
「ケン、ケンケン、ゴッホーン。あんまり高価くないならば、ゴッホンホン、管理まかせてもいいけれど、コン、コンコン、いまはわからん」
 私はその茶髪のバイト植木屋をにらんで発作の一点ばりになるほかなかった。

 なにかボヤきながら、いつのまにか茶髪はいなくなったようである。
 「じゃあのまんま放っておくよ。弱っちゃうなあ。案外丈夫だから・・・」
とわけのわからぬことを言い捨て、茶髪のバイトとやらは消えていったようだ。

 その夜、私は病院に入れられた。
 あとは知らない。インフルエンザA型だったのだそうだ。
 もし来年、あの見ごとなカサブランカ百合が群生したなら、私は生き残ったじぶんに驚きながら、百合の丈夫さにもおどろくことだろう。

 いかなる天命か私は友人たちに支えられて二十日後の一昨日退院してきたのである。

 そしていかなる天命か、またもやこの原稿の締切り日がチャンと私を待っていたのである。

 天使にしては粗雑な、茶髪のバイト植木屋は、放っておいても案外丈夫だよ、と何かの夢魔が病気の私に啓示でもたらしてくれたのだろうか。

それにしても、とりとめもなく、散文的に私の啓示は出たり消えたりしてくれたものである−。

<月刊誌「民藝の仲間」99年3月号より転載>



連載 八十八齢春秋<1> 
お正月には何をする-

北林谷栄

 ありていに言うと、ただいまはお正月までに、まだ半月もゆとりがある。
 が、今日明日じゅうに、ちょっとした感想文を書いて送らないと、新年号の民藝新聞のお正月版に間にあわないのだそうである。

 新年第一号という新聞なので、お正月の改まっためでたい気分が出るにかぎる。だが嘘話も嫌だな、と考えた末、ひとつの道を見つけた。

 それは仮定法を使うことである。正月には私はどうするだろうか

 おそらく私は、いま仮定することに近い行動を、ほんものの正月にも行なうにちがいない。
自分の事だから大体、寸法は判っている。
仮定法で正月を引きよせて考えてみよう。

 さて、新年の事始めには、私は春いちばんの大仕事、「蕨野行」の台本の縁起を祝うだろう。
(事によっては御幣かつぎなのである。)
台本はすでに刷りあがって、薄みどり色のさわやかな表紙もついている。
印度の線香の白檀のを何本か大事に蔵ってあるので、火を点じて台本さんを煙にかざして、心理上の儀式とするだろう。
来年は私も居るのか居ないのか判らないから、よし、残り三本ともぜんぶ点じて、台本も、我が手も顔もぜんぶきよらかな煙にくぐらせてやろう。

 次に没した人の写真と差し向いで、二人ともに好きだった卜ワイニングのアール・グレイなどを心静かにコップに満たし、今年しようと考えている脚色の仕事を相手のコップさんに告げ、護ってくださいね、と懇願するだろう。何しろ私ひとりでは力弱いのだ。
亡くなった人や生きている人や、色々な人たちに心のなかでお願いしないと、私はこわくて新しい仕事に取りかかれない。

去年は佐江衆一さんの「北の海明け」の脚色を望んでみたが、幕末の転換期の巨(おお)きいうねりと、アイヌの民族悲劇とがからみあってキシルような不協和音を立てている力感ある秀作で、これに眼をつけたのは私の「悲劇」なのであった。
後退、敗北を防ぐために、作者に申し入れして我が手足を縛ってから後に取組んでみたのだが、あきらめるのでなく、も少し先に延ばして、なんとか勉強を重ねていく他ないと腹のなかの歯を食い縛っているー。

こんどの正月も、その一助として、或る人の作品をトカゲの尻尾のように考え出した。そのことでおてんとさまに祈念し、もっともおてんとさまが出てくださればのことであるが、私は或る一冊の小説をかかえて、オーバ−に包(くる)まって駅への道をトコトコ歩きだすだろう。思うこと有ると躰がうごき出すのだ。

その一冊の小説とは・・・ええい、まだ早い。又もや恥をかくのはたまらん。

 出かける先きはいつものコオヒイ店「ブレンド」だ。
何しろ他に行くところは我が町ひろしといえどもこの一軒きりなのだから。
いつもながらの駅への道すじは新年は清められて、いくらかは新鮮なことだろう。
「ブレンド」は暖かくて、コオヒイの匂いが立ち、マスターの好きなジョージ・ウィンストンの弾くピアノ曲Winter Into Springあたりが明るく流れていることででもあろうか。
「ブレンド」御自慢のブレンドコオヒイをゆっくり飲み、澄明な曲をこめかみに受けていると、すっかり頭がクリアになってきたような感覚を得て武者ぶるい位するかもしれぬが、これぞ仮定法のなかの二重カッコの仮定法なのだからアテにはならぬ。

さて出かけずばなるまい。
わが町に三軒ばかりあるビデオ屋を遍歴でもすることにしよう。
 お正月には棚の品物も入れ代っているだろう。ジャック・レモンとウォルター・マッソウの「フロント・ページ」これはビリー・ワイルダー監督のものでなければダメだ。
新版の誰やらのアドルフ・マンジュー主演では全然こまるのである。
親の仇のようにビリー・ワイルダー版を探しているが出逢えない。最近の安易な廃盤の問題ともいずれは斗わなければなるまい。
だが、どうやって!

 修飾を交ぜるまいとして仮定してみると、私の新春はこんなに貧弱だ。
それでも正月、新年、本音が良い。
元気を出そうと深呼吸する。
金沢丹後藤原義久のヒイ孫なるぞ。

ウーム。フーム。エイッ。

<月刊誌「民藝の仲間」99年1月号より転載>



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