『静かな落日』こぼれ話
(前口上)これまでモバイルサイトで連載していたのですが、公式WEBサイトにも掲載することになりました。読み切りで『静かな落日』にまつわる話を不定期に短く紹介したいと思います。(2012/01/13)
(あとがきならぬあとがき)これまで30回ほど、いろいろと記してきましたが、区切りもいいところなので、とりあえずこれでおしまいにしたいと思います。おつきあいくださったみなさん、そして応援して助けてくださったみなさん、ありがとうございます。(2012/02/20)
その30・最終回
東日本大震災後、仙台での初めての試合後、東北楽天イーグルスの嶋基宏選手は「誰かのために闘う人間は強い」と言いましたが、広津和郎の松川もまたそうであったのだと思います。ただ、それはそうでありながらも、広津は、そういう言い方を好まないようにも思います。松川に関わったのは「怠け者で暇があったから」とか、放りだすことなく粘ったのは「相手がやめないから」だととぼけ、意志の強さを感心されれば「僕には強いも弱いも意志なんかない」とかわしました。
広津は、自身を弱い人間だと言っています。広津は自身を小説「波の上」で次のように描いています。決心して両親、愛情のもてない妻、長男と同居をはじめるのですが、しかしやはり同居はうまくいかず妻の頬を撲ったりした。柳浪は広津をたしなめます。広津は、父の膝に突っ伏して「父さま、ほんとうに申訳ありません。僕は駄目なんです。なっていないんです、……ほんとうに恥ずかしいんです」と声を出して子供のように泣きました。
そして父はそんな息子の背中を軽く叩いてなぐさめたのです。柳浪と和郎、たがいへの愛情と理解の深さは文壇でも大きな話題になるほどでした。(2012/02/20)
その29
東京公演が終わってとりあえず一休みなのですが、3月11日から旅公演が始まります。長野県と四国をまわって、4月5日に帰京します。そのあと、ちょっとあいだがあくのですが、4月29日に川崎市の麻生市民館ホール(小田急線新百合ヶ丘駅北口)で一日だけ公演があります。これは[川崎・しんゆり芸術祭2012]アルテリッカしんゆりのなかの一公演として上演されるものです。民藝の稽古場は新百合ヶ丘駅から三つ目の黒川駅が最寄り駅で、いわゆる地元公演になります。
そこで速報なのですが、この公演前、「劇団民藝と広津和郎」と銘打って映画『松川事件』『にっぽん泥棒物語』『晩春』『安城家の舞踏会』の連続上映が決まりました。4月21日から27日のあいだ、川崎市アートセンター・アルテリオ映像館で上映されますが、上映日や時間等の詳細はまだ決まっていません。決まったらまたお知らせしますので、ぜひ足をお運びください。(2012/02/17)
その28
劇場ロビーで販売した公演Tシャツが、思っていた以上に売れました。感謝でいっぱいです。というのもみなさん、収益金が東北への支援金となると知ってよろこんで買ってくださったからです。「支援金にさせていただきます」と言うと、にっこりされた方、ウェブサイトで読んで知ってますと言われた方、それならば買いましょうと言ってくださった方、じゃあ息子にも1枚と追加された方……。
地震からもうすぐ1年。公演中も地震で劇場が揺れました。福島から芝居を観に来てくださった方々からは、いまも困難な生活をうかがいました。早く東北のみなさんが心から芝居をたのしめるように、というみなさんの気持ちの温かさを感じました。ただ、買いたくなるような、もっとシャレたデザインにしてくださいというご指摘もいただきました(笑)。次はガンバります!(2012/02/16)
その27
2月14日、東京公演が千秋楽を迎えました。上演回数は205回になりました。正直言って、初演の時、『静かな落日』がこれほどのステージ数を重ねることができるとはだれも予想していませんでした。まして東京で再演するとは……。いい作品ではあるけれど、ちょっと地味すぎて“売れない”という諦めが内心あったのです。しかし、もしかしたら『静かな落日』のことが何もわかっていなかったのかもしれません。
私たちに『静かな落日』の魅力を教えてくださったのは、観客のみなさん一人一人です。上演ごとの客席の反応、たくさんの感想、熱い応援と励ましが、この作品の血となり肉となり、こころとなりました。この10年の観客のみなさんの生活の営みに呼応することで、『静かな落日』は味わいを深めていくことができたのだと思っています。『静かな落日』の魅力を汲んでくださったみなさんにお礼を申し上げます。(2012/02/15)
その26
2月11日終演後、元被告の本田昇さんにお話をしていただきました。なにぶん短い時間でしたので十分に話していただくことができませんでした。ちょっとこぼれた話を少し補足的に紹介します。
無罪が確定して広津は松川対策協議会会長を退任するのですが、そのあとも松川のみなさんはたびたび熱海の家を訪ねたりして相談に乗ってもらっていたそうです。本田さんから見れば広津はずっと年長で緊張してもおかしくないのですが、広津の話がおもしろくていつもあっという間にときが過ぎたようです。ただ静かでひかえ目な桃子は、その話の輪に加わることはなく他の部屋にいたそうです。
広津が亡くなった後、本田さんたちは桃子さんを守ろうとし、桃子さんも何かと頼りにしてくれたそうです。晩年パーキンソン病になられて、本田さんが毎回通院につき添っていたのですが、亡くなられるまであと2回か3回だったか、仕事の都合でつき添えなかった。最後までつき添いたかった……、それが本田さんの心残りになりました。(2012/02/13)
その25
2月9日、上演回数がちょうど200回となりました。前にこれまで331作品を上演してきた民藝で200回を越えた作品は過去に18本しかなく、『静かな落日』は19本目と特筆しましたが、考えようによっては初演から10年余りもかかってこの回数というのは、逆にちょっと少ないとも言えます。と言うのも、2001年に東京などで初演しながら、次に上演したのが4年後の2005年。2005年の次に上演したのはその4年後の2009年です。これは上演が叶わなかったのです。
よく冗談でオリンピックみたいだと笑うのですが、やはりさびしくもありました。でも2009年以後毎年上演を重ねてきて、なにか『静かな落日』らしいとも思えます。派手なアクションもドラマチックな展開のない地味な舞台です。ベストセラーよりもロングセラーが似合う作品なのだと思っています。また長い熟成期間が、舞台をよりよいものに創り上げたのではないかとも思うのです。(2012/02/12)
その24
広津らしいと思うエピソードを二つ紹介します。各地に松川裁判の講演にでかけたとき、会館の和室に泊ることになっても何も言わず泊ったそうですが、旅館に泊まったときは、被告の方に金を握らせて「僕からよりも君から……」と仲居さんに心づけしたそうです。また儀礼的なことが嫌いな広津でしたが、県知事への挨拶など地元の松川を守る会の人たちが活動しやすくなるならばと引き受けたようです。
国家賠償請求裁判の資金が足りなくて、松川のみなさんが奉加帳をもってお願いにいったとき、広津はその筆頭に「二万円、待てよ。多い方がいいだろう」といって五万円と書き、「金はいまないから二度払いだよ」と二万円を出してくれたそうです。次の人たちが少ない額を書きにくくなるだろうということでした。謙虚な態度、こまやかな心配りと運動感覚が、多くの人の心を動かしたのでしょう。
昨日までに5ステージを終えました。大きな拍手と感想はもちろんなのですが、劇場ロビーでの広津の写真パネルと著作にぐっと見入るお客様の後ろ姿にも、再演してよかったと勇気づけられ励まされています。(2012/02/08)
その23
広津和郎の「散文精神」とは、思想や世界観ではなく、自身の人生に向き合う姿勢であり態度でした。「どんなことがあってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通していく」。生き抜くことへの覚悟を示すことばではあるのですが、他方で「みだりに」という語句が、何かほのぼのとした印象も与えます。人間なのだから悲観したり楽観したりするけれど、ただ「みだりに」一喜一憂するのは避けたいと。
桃子は、広津が松川裁判に没頭していった動機の一つには「謙遜を欠いた権威」に対する「納得のゆかなさ」にあったと記しています。これも「権威」そのものを否定しようとしたのでなく、ここで問題にしているのはあくまで「謙遜を欠いた」あらゆる行為での権威意識なのです。こうしたあり方が、広津らしさなのだと思っています。広津は生涯「正しさに対する誠実」を求めた人でした。
昨夜、東京公演が幕をあけました。できるだけ多くの人に広津和郎という人を知ってもらいたいと願っています。(2012/02/04)
その22
劇中、女学生時代の桃子が、もの心つく前から別居している父親を仕事場(菊富士ホテル)に一人で訪ね、話題に困って「お父さんの小説を全部読んでいる」というようなセリフを言う場面があります。広津和郎はこれにびっくりして「女学生が父親の小説なんか読むもんじゃない」と叱ります。それは娘に読まれたくないことが書いてあったからです。
たとえば、母親をさして「関係を生じてすぐ、『失敗った!』私はこう直ぐ叫んで、後悔に心を苛まれた事を覚えている」(「やもり」)、二度目の妊娠がわかったとき「又、愛してもいない女との間に、子供がひとり此世に生まれ出る!」、生まれたときは「正直な話、僕はその時、その赤ん坊が可愛らしいとは思わなかった」(「波の上」)と、広津は小説に書いていたのです。広津が作家であったために、事実そのままではないにしろ、ずっと桃子の心のなかにわだかまりを残すことになるのです。(2012/02/02)
その21
2012年1月29日(日)、『静かな落日』の初日が迫ってきたので、福島大学松川資料室に行ってきました。劇場ロビーに展示する写真パネル等を借りるためです。日曜日にもかかわらずいつものように伊部正之先生が笑顔で迎えてくださり、資料をいろいろと掘り出していただきました。本当は28日を希望したのですが、その日は、松川事件と松川運動を語り継ぐ「語り部」の養成講座の第1回があり、しかも講師が伊部先生だったのです。
この講座は1月から9月まで毎月1回予定されており、元被告の阿部市次さんはじめ、松川町民の方、松川運動に参加された方、弁護士、日本国民救援会の方などが講師に予定されています。第6回の予定はかつての「現地調査」で、バスで福島市内から現地までの要所を視察、阿部さん、伊部先生が案内してくださるようです。10年以上『静かな落日』にかかわってきて、まだ「現地調査」をしたことがなかったので、これにはぜひ参加したいと思いました。(2012/01/31)
その20
広津和郎には「二人の妻」がいました。はま夫人は内縁の妻であり、戸籍上の妻はふくでした。広津に親しい感情をずっともちつづけていた澤地久枝さんは、「二人の妻」の事情を知ったとき以来、ふくの法律上の妻であることにこだわる生き方をうとましく思っていたそうです。ふくと一緒に暮らしている桃子は、熱海の広津とはまの家に通ってくるわけで、澤地さんにとって二人の女性と広津自身がこうした関係をどう考えているのかは謎でした。
はまが亡くなったとき、澤地さんははまのことを書いてくれるよう広津に頼みます。しかし、広津は「それは……。どうもねえ」とやんわりと、かつ意志のこもった低い声で断ったそうです。澤地さんは頼んではならない原稿を頼んでしまったと後悔します。澤地さんはその後身体を壊して中央公論社を退職するのですが、退職挨拶状の広津からの返事を「傷だらけになった心と病む体をかかえる三十二歳の人間にとって、この手紙は温かい湯以上に胸中深くしみるものであった。この一通にささえられた日を忘れられない」と記されています。(2012/01/30)
その19
澤地久枝さんは、広津和郎さんは「戦後五十年をふりかえるとき、決して忘れてはならない人の一人」と記しています。澤地さんが初めて熱海の広津を訪ねたのは、澤地さんが経理部から『婦人公論』編集部に転属になり、ちょうど広津が「松川裁判」の連載を始めた1954年です。松川事件についての講演依頼のためで、澤地さんは連載を毎号たのしみに読んでいたのです。
9年間の編集者生活で、澤地さんは広津を「お目にかかれずにはいられない人」と感じ、広津に登場してもらう機会をふやしたいと考えていたそうです。小説『泉へのみち』が映画化された折には、主演の有馬稲子さんと対談してもらい、桃子さんにも「『松川裁判』と父の情熱」という文章を59年に書いてもらっています。この桃子の文章を初演のパンフレットに転載しました。澤地さんにも寄稿していただいていて、文中に「桃子さんの発表された文章のごく初期のものに、わたしが担当したものがある」とあるのですが、それがこの文章のことです。(2012/01/26)
その18
突然ですが、2月10日(金)昼公演終了後にバックステージツアーをおこなうことにしました。もちろん舞台上にあがっていただいて、舞台装置、小道具などを見てもらうつもりですが、それだけではちょっと物足りないかと思いますので、暗転(幕をおろさないで、舞台を暗くして場面をかえる)を体験していただこうかなと思っています。
『静かな落日』は二幕九場(昭和の初め頃から昭和43年まで)で構成されていますが、ほとんどが室内(日本間)の場面です。それを障子、ふすま、壁、小道具のとり換えなどで場所と年代を転換していきます。暗転の場合は、照明を消して暗闇の中でスタッフがこれをおこないます。言うは易し行うは難しで、暗闇の中で正確かつスピーディ、スムーズにおこなうのは大変です。ですから時間をとって場面の転換稽古というのもやります。短い時間ですが、みなさんにこれを少し味わってもらおうというわけです。(2012/01/24)
その17
前に広津家のお墓がある谷中墓地のことを記しましたが、森まゆみさんが『谷中スケッチブック』(ちくま文庫)のなかで広津和郎のことに触れています。ちょっとほほえましいので紹介します。
「子供が赤ン坊のころ、よく墓地を散歩しているとお乳を欲しがった。ベンチとてないので、適当な日陰のお墓を選んで、その縁に腰かけて飲ます。静かだ。鳥の声が聞える。風が渡って木がざわめく。
満足した子供が乳首を離し、私は立ち上がって振り返ると、広津和郎のお墓だったことがある。字は志賀直哉。墓碑は谷崎精二。
『風雨強かるべし』を読んだ直後で、松川事件の資料も読みたいと思っていた矢先だった。私は軒先ならぬ墓先をお借りして申し訳ないながら、思いがけない出会いにうれしくなった。」(2012/01/21)
その16
三好十郎は、広津和郎の「神経の正常さと精密さ」を褒めちぎると同時に、「それが、しかし、どうして、小説を書かせると、こんなにマズイのか?」と酷評しました。1949年、松川事件の起こる前のことです。志賀直哉も「広津君は自分のことにはゾロッペエなとこがあったね。小説は僕はそんなに感心しないんだ」と回想しています。広津自身、自分を「無精作家」とも「怠け者」とも呼んだわけですから、そういった自覚もあったようです。
近代文学研究者の紅野敏郎さんも広津の本質は評論家であるとしています。そのうえで小説家としての代表作は『神経病時代』『風雨強かるべし』などになるのだろうけれど、「芸術的結晶度の高さからいえば、『師崎行き』『やもり』『波の上』と続く私小説系のもの、ということになる」と述べています。しかし、文学者広津和郎の特長、その対象に向かう、暖かさを含んだ、ひたむきな姿勢をもっともあらわす作品に、評論と小説の枠をとっぱらった『小説 同時代の作家たち』(1951年)と自伝的小説『年月のあしあと』(1963年)『続 年月のあしあと』(1967年)をあげています。『同時代の作家たち』は岩波文庫、『年月のあしあと』は講談社文芸文庫にはいっています。(2012/01/20)
その15
広津和郎が「真実は訴える」(1953年)を発表したとき、「法律の素人が裁判に口を出すことについて、批判というより、殆ど嘲笑、罵倒に近い非難の嵐がまき起った」そうです。それに対して広津は「私はそういう揶揄嘲笑には答えないことにした(故三好十郎にだけは、三好君が文学者であり而もその文章に署名をしていたので答えた)。それはそういう揶揄嘲笑を浴びせかける人達が、法廷記録の一行も調べていないということが明らかだったので、何も知らない人達が何をいっても、それに答える必要はないと思ったからであった」と述べています。
劇作家三好十郎の批判は『読売新聞』に週一回連載していた「愚者の楽園」に書かれたものです。三好も「法廷記録の一行も調べていない」のですが、広津は『朝日新聞』に「甘さと辛さ」という反論を書きました。吉永仁郎さんが、この論争を初演のときに「月刊民藝の仲間」(2001年8月号)で紹介してくださっています。「広津和郎と三好十郎」という文章です。再録しましたので、ぜひご覧ください。(2012/01/16)
その14
広津和郎と志賀直哉が親しくなったのは、戦中になって住まいが近所になってからでした。たがいに麻雀好きで行き来が頻繁だったようです。広津は戦争中に熱海に疎開するのですが、のちに志賀が熱海に引っ越してきたのも、麻雀のためだとまわりからからからわれたそうです。だから「麻雀ばかりやっているくせに、広津さんの松川なんて信用できない」と批判もされたようです。
しかし、松川は、広津の麻雀の手をしばしば止まらせたといいます。志賀は「人の顔さえ見ればその話なんだ」と言い、「あの熱情はほかの人には真似られない」と感心させられるのです。志賀は「齢とるほどだんだん広津君好きになったな」、「ほんとうに広津君はいい人だったな。晩年の友だちとしてはいちばん近かったね」と回想しています。広津の熱海の自宅には志賀から贈られた掛け軸「徳不孤(トクハコナラズ)」がかけられていました。「徳不孤」は論語の一文でそのあとに「必有隣(カナラズトナリアリ)」とつづきます。書店の「有隣堂」はこれからとられているのだそうです。(2012/01/13)
その13
広津和郎は、まず文芸評論家として世にでました。チェーホフ論、二葉亭四迷論、徳田秋声論など優れた仕事を残していますが、志賀直哉論もそのひとつです。ただ、志賀自身「広津君が私のものに持つ不満は大体自分でも同感だ。しかし、あまりたびたび言われると、広津君がかくあれと望んでくれるようにはなりたくないものだという気になる。ひいき作者なるがゆえに望むよう言われると、なおそういう気になる」と書いています。1925年、広津と志賀が親しくなる前の文章です。
志賀は広津のことを「生まれつきの優しい温かい心」の持ち主だと評し、松川にかかわる広津を全面的に応援しました。志賀は松川のことはよくわからないけれど、「広津君がそういうならまちがいないと思って、その方で(被告の無実を)信じた」と言っています。また評論家というものは浮気であってはならない、カタがつくまで責任をもってやり遂げるものだと断じ、ひとつのことにかじりついてやる広津の仕事ぶりを「気持ちのいい」ことだと述べました。(2012/01/09)
その12
『静かな落日』は、2001年の初演いらい、2011年まで193ステージを重ねました。2012年東京公演は12ステージ。東京公演のあとは長野県、四国、川崎市で18ステージをおこないます。したがって2012年終了時には223ステージを数えます。これは大変なステージ数だと思っています。
民藝は今年創立61年ですが、そのあいだに上演した作品は331本、総計20,750ステージになります。そのうち200ステージを越えた作品は18本。『アンネの日記』(1,695回)、『セールスマンの死』(536回)、『泰山木の木の下で』(448回)、『炎の人』(397回)、『イルクーツク物語』(370回)、『るつぼ』(353回)、『グレイ クリスマス』(337回)、『払えないの? 払わないのよ!』(320回)、『ドライビング・ミス・デイジー』(315回)、『星の牧場』(274回)、『島』(270回)、『明石原人』(263回)、『研師源六』(260回)、『銀河鉄道の恋人たち』(253回)、『おんにょろ盛衰記』(231回)、『君はいま、何処に…』(215回)、『三年寝太郎』(206回)、『夜明け前 第二部』(202回)です。
『静かな落日』が19本目になります。足掛け11年にわたる公演というのもあまり例のないことですが、これをさらに伸ばしていければと思っています。(2011/12/22)
その11
戦争協力の文章を書かなかったために収入を絶たれた広津和郎でしたが、戦後になってものが自由に言えるようになっても、実は精力的にすぐ仕事を始めたわけではありませんでした。書かないことが時局に対する消極的な抵抗と聞かされていた娘の桃子は、疎開先だった熱海で毎日のように志賀直哉らと麻雀にふける老いた父親のすがたに少なからず落胆し失望を感じたようです。
年上の親友の志賀直哉もまた和郎があまり仕事をしてないことを気にかけていました。志賀は広津家の生活費の心配をしたのです。そこでこれまた熱海に住んでいた友人の小津安二郎に和郎の小説の映画化を依頼したそうです。それが戦前に書いた小説『父と娘』をもとにした映画『晩春』(1949年9月公開)です。『晩春』は、その後の娘の結婚をめぐる小津映画の初めての作品となりました。『父と娘』は1939年の作品で、映画では父を笠智衆、娘を原節子が演じました。(2011/12/17)
その10
広津和郎は「書きたくて書いた小説はない」と公言するような作家でした。もともと、尾崎紅葉と並び称された流行作家である父柳浪が「金がなくてもやりたくないことはやりたくない」と自然主義の流行に抵抗して筆を折ってしまったために、若くして生活費を稼ぐ必要に迫られ書き始めたというような経緯もありました。
また和郎は戦争に協力するような文章を書かなかった数少ない作家のひとりで、それは当然収入を失うということを意味するわけですが、和郎はあまり深刻に考えないようにしていたようです。たとえは、お金に困ったら、いま住んでいる家を売って、いまより小さな家を買い、その差額を生活費にしようとしたのです。その生活費がなくなると、また家を売って、さらに小さな家を買えばいいなどと、娘の桃子があきれるほど楽観的に考えていたようです。(2011/12/15)
その9
『静かな落日』公演Tシャツは白と黒があります。白いTシャツは2009年につくりました。しかし、公演スタッフはだいたい黒っぽい服を着るものですので、旅公演中に着ることはほとんどありませんでした。黒いTシャツは今年7月につくりました。販売収益金を東日本大震災で被災した東北演劇鑑賞団体連絡協議会におくろうと思ったからです。みんなで東北へエールをおくりたいと思ったものですから、スタッフも着てもらえる黒にしたのですが、ただそれをどんなことばで表すか決めかねました。
6月に東北をたずねたときに「がんばろう東北」のことばがあふれていたので、それをプリントしようかと一度は思ったのですが、不安を抱えながらがんばっている東北に私たちががんばろうと言うのもどうか……。結局悩んだ末に、広津桃子のつぶやき「好きよ、お父さんが好き…」をもじって「好きよ、東北が好き…」にしました。来年の収益金も東北におくります。(2011/12/01)
その8
2012年版公演パンフレットの表紙なのですが、これは2001年初演のときのポスター・チラシのデザインを使いました。蕗の葉にとまる赤とんぼ。チラシを見た元被告の加藤謙三さんが「あ~、赤とんぼですね」と言われたのをいまも覚えています。湯島に転居する前、新橋にあった日本国民救援会の事務所で、はじめてお目にかかって『静かな落日』公演の話をさせてもらったときのことでした。
赤とんぼは、『にっぽん泥棒物語』にでてくるエピソードからとったものです。拘置所内の被告と家族を結ぶきずなを示す話としてよく知られていたようです。映画を観ていただくのが一番いいのですが、ご覧になれない方は、パンフレットの「赤とんぼが劇場に舞った」でちょっと紹介されていますので、そちらをご参照ください。その赤とんぼを胸にプリントした公演Tシャツを公演当日に1,500円で販売します。(2011/11/29)
その7
映画『松川事件』は事実を忠実に再現したドキュメンタリー的劇映画でしたが、姉妹作品のような映画に『にっぽん泥棒物語』があります。これも山本薩夫監督で、こちらは大いに笑わせて、最後はほろっとする娯楽作品です。『松川事件』の撮影中、松川事件の犯人を見たという泥棒に取材して、それをもとに映画化したものです。無罪確定後の1965年5月に公開されました。
とにかくおもしろいので、ご覧になってない方はぜひ観てください。『にっぽん泥棒物語』では松川事件でなく杉山事件になっています。できれば映画『松川事件』をご覧になってから鑑賞されることをお勧めします。出演者がかぶっていますので、それもおもしろいのです。DVD化されて販売されています。実のところ最初は『松川事件』との併映を企画したのですが、実現しませんでした。(2011/11/28)
その6
「読んでから見るか、見てから読むか」というキャッチ・コピーが34年前に流行りました。映画と出版の「メディアミックス」によるテレビ・コマーシャルでした。公演パンフレットは一般的に観劇当日ロビーで買うものですから、常識的には「観てから読む」ということになるでしょうか。今回、非常識にも「読んでから観る」ことができるように、東京公演初日の二ヶ月以上も前にパンフレットをつくってみました。
10年ぶりの東京再演、その間に全国各地で193ステージを重ねつづけてきましたので、このたびのパンフレットは、ちょっと大仰に言うならば、『静かな落日』、広津和郎氏、松川にかかわった人々の証言をあつめてみました。作者、俳優、元被告の本田昇さん、茅ヶ崎演劇鑑賞会事務局長さん、作家の橘かがりさん、そして広津桃子さんの生前の文章。たまには観る前に読んでみませんか。内容の詳細は『静かな落日』パンフレットをご覧ください。(2011/11/23)
その5
映画『松川事件』DVD上映会が終わりました。当日は映画上映後、元被告の本田昇さんにごあいさついただきました。元被告20名でいまも存命なのは鈴木信、阿部市次、赤間勝美、加藤謙三、岡田十良松さんたちと本田さんの6名なのですが、事件から今年で62年ですからみなさんもご高齢になられています。
だんだんと松川事件・松川裁判・松川運動のことを知る人が少なくなっていくなか、本田さんの話しつくせない、書きつくせない思いをどう受け継いでいけばよいのか……。できるだけ長生きして松川のこと、広津先生のことを語り継いでいきたいと以前におっしゃっていたのですが、「みなさんによって生かされた命」という本田さんのことばが強く胸を打ちました。(2011/11/16)
その4
いよいよ映画『松川事件』上映会が迫ってきました。おかげさまでほぼ満席となりました。いまもお問合せをいただきますが、当日券とキャンセル待ちをご案内させていただいています。
先日、福島大学松川資料室をたずねてロビー展示用のパネル等の資料をお借りしてきました。たくさんの資料を拝見しているうちに、あっという間に時間がたってしまいました。しかし、線路用工具のバールというのは本当に重いものですね。今回はじめて手にとってみました。伊部正之先生に事件現場と「松川の塔」も案内していただきました。お忙しい中、感謝でいっぱいです。(2011/11/07)
その3
もう10月になってしまいましたが、9月21日は広津和郎の命日でした。1968年に76歳で亡くなりました。
広津家のお墓は谷中霊園内にあります。広津はこの周辺の明治からの様子を愛情をこめて文章に記していますが、娘の桃子にしても同様だったようで、墓参りのたびに少しずつ移り変わっていく谷中の風景にある寂しさを感じていたようです。ただ、広津の命日は賑やかだったと言います。毎年元被告の方々が墓参りに訪れてくれるからです。
『静かな落日』の幕あきは、広津が亡くなって本の整理をしていた桃子を、志賀直哉が訪ねてくるところからはじまります。(2011/10/02)
その2
先日、松川裁判の主任弁護人大塚一男さんが亡くなられました。9月4日朝刊に訃報記事が掲載されていて、本当にびっくりしました。お具合が悪いとはうかがっていたのですが……。
実は「松川事件」上映会でごあいさつをしてくださるようにお願いして、体調が思わしくなく本当は断りたいのだけれど、なんとかがんばってやりましょうと一度は約束してくださっていたのです。
「静かな落日」の初演を観劇していただき、こんどの10年ぶりの再演もよろこんでくださっていたのに、本当に残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。(2011/09/09)
その1
『静かな落日』は、父広津和郎と娘桃子との家族のきずなを描いた作品です。戦前の父への不信、戦中の憤り、戦後直後の落胆…。しかし、松川裁判を通して、桃子は父への理解と愛情を深め、父と和解していきます。したがって松川事件、松川裁判については詳しく描かれていません。もちろんその知識がなくても芝居はたのしめるのですが、知っていればより深くたのしんでいただけると思います。そこで『静かな落日』プレイベント・無罪判決50周年記念として、映画『松川事件]DVD上映会を企画しました。当日は元被告本田昇さんがご挨拶してくださいます。ぜひお出かけください。(2011/09/01)

