広津柳浪・和郎・桃子について……広津家三代
『静かな落日~広津家三代~』は、2001年に紀伊國屋サザンシアターで初演、いらい全国各地で上演を重ね、このたびは11年ぶりの東京公演となります。
この作品を民藝に書き下ろしてくださったのは、評伝劇の名手といわれる吉永仁郎さんです。あの私小説家の広津和郎が、松川裁判にかかわったのはなぜか。裁判当時からずっと気になっていた疑問の答えが、祖父・広津柳浪、父・和郎、娘・桃子という三代にわたる作家一族のドラマ化でした。広津家三代とは――
■柳浪は暗闇と欠点とを見てきた■
広津柳浪(1861~1928)は、明治20年代後半から30年代にかけて活躍した人気作家で、代表作に『変目伝』『今戸心中』『河内屋』『雨』などがあります。社会の底辺で生きる庶民の凡庸で醜悪な現実を執拗に描いて「悲惨(深刻)小説」と呼ばれました。しかし、自然主義が流行しはじめると、「金がなくてもやりたくないことはやりたくない」と40代なかばで筆を折ってしまいます。
■生活のために書き始めた和郎■
広津家の家計を支えることになるのは、次男の和郎(1891~1968)でした。和郎は麻布中学在学中から懸賞小説に投稿して小遣い稼ぎをしていましたが、早稲田大学へ進学してからはチェーホフ、モーパッサンなどの翻訳を手がけます。しかし、父への尊敬と愛情から、和郎は生活難に不平不満を抱くことがなかったと記しています。ただ柳浪の代になってから健全だった家系に頽廃が始まったとも和郎は述べています。自身、欲望に負けて下宿屋の娘とのあいだに長男・賢樹(1924~1939)をもうけてしまいます。和郎は、長女・桃子(1918~1988)の誕生を控えるにいたって、しかたなく婚姻届をだします。
■チェーホフは凡人と一緒に歩く■
和郎はまず文芸評論家として世に認められるのですが、当時流行のトルストイよりもチェーホフを好みました。宗教や道徳を論じるトルストイにおしつけがましさを覚え、人間の弱さを描いて正直と謙遜への自省をうながすチェーホフに共感したのです。和郎はチェーホフにほんとうの意味の聡明と意思の強さを見ました。文壇処女作『神経病時代』は、実際の事にあたって決断力も忍耐力もなく頼りにならない、インテリの弱さと脆さを憂えたものであり、実現力のない彼らを和郎は「性格破産者」と呼びました。
■思想より資質がものを言う■
和郎は小説を「散文芸術」と呼びました。小説という芸術は人生のすぐ隣にあり、小説家は自身の生活とその周囲とに関心なく生きられないところに、小説という芸術の特性があると述べています。和郎は、芸術よりモラルを大切にしました。小説『さまよえる琉球人』が「沖縄人への誤解を生じさせる」として沖縄青年同盟より抗議を受けた際、謝罪文を発表して以後この作品を「抹殺」することを約束します。また同時に、このころ志賀直哉から「広津君は女という貨物列車を年中引っぱっているみたいじゃないか」と女性問題をからかわれたりもしました。「どんなことがあってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く」――和郎の芸術論は、結論に走ることなく、生活のつらさをもちこたえ生きていく姿勢そのものでした。
■「弱さ」が「強さ」になる■
和郎は思想や世界観を語ることを好みませんでしたが、「アンチ文化の嵐」が吹きまくる時代に黙っていられませんでした。「私が文学に引かれ文学をやっているのは、私という人間の弱さのためである」と述べ、そして大政治家の強心臓に対して文学者の心臓は弱い、トルストイもドストエフスキーも心臓が弱いがゆえに、人類の犯すあらゆる非人間性に我慢がならなくなって反逆したのであると論じました。すでに和郎は「無理と不自然とが何よりもいけない」と述べていますが、宇野浩二の発狂に羨望する芥川龍之介にむかって、自分は家族の面倒をみるため「80までも生きてやろうと思っているよ」と語っています。
■重要なことは何度でも言う■
和郎が松川裁判に関わるのは被告の無罪を直感したからなのですが、論証的な批判にむかう前提に、人間とはどう感じ考え、どう行動をとるものなのか、という文学者の目がありました。また、ことばを生業にしてきた和郎にとって、具体的な人間の暮らしを無視した判決文は説得力のない空文でした。とくに目につくのは、物的・状況証拠がまったくないのに対して、〝しかし、だからと言って、被告が……しなかったとは言われない〟という言い回しでした。証拠のない人間が死刑にされることに「じっとしていられなかった」と和郎は語っていますが、ふたたび「『軍の権威』の前にみんながおしになった時代」をくり返してはならない、という歴史に対する強い責任がありました。和郎は「何よりも先ず、正しい道理の通る国にしよう、この我らの国を」と筆書きしています。
■人生は決勝点のない道である■
桃子は、和郎の死後に病床の父とのこころの交流を描いた『波の音』を発表。また『父 広津和郎』を書き下ろします。代表作『石蕗の花』(女流文学賞)は、作家網野菊をとおして、女性が独りで生き、死を迎える姿を追いました。桃子がもっとも愛した父のことばは「明日は死ぬ、しかし今日は生きている、つまり今日に死はない、すなわち死なないと思って人間は生きているのである」でした
『静かな落日』は初演以後なかなか上演機会を得ることができませんでした。念願が実現したのは、4年後の2005年(58回)のことでした。またそれから4年後の2009年(52回)、そして2010年(34回)、2011年(26回)と193ステージを重ねてきました。またこの東京公演(12回)後の3月・4月に18ステージを予定しています。これらのステージのほとんどを支えてくださったのは全国各地の演劇鑑賞団体です。長い歳月のあいだに司法をめぐる社会状況の大きな変化、そして東日本大震災がありましたが、この「静かなドラマ」への変わらぬ熱い応援に何度となく励まされ勇気づけられました。「うまずたゆまずトコトコ」といっしょに歩いてくださったことにあらためて深く感謝します。上演記録もあわせてご覧いただければ幸いです。

